9. 死生観

中学生くらいのお話です。

ある夜、寝ようとした時にふと、

 

「自分て生物として生きているんだよな。」

 

「だとすると、原因はいろいろあれど、必ずいつか死が訪れるんだよな。」

 

「今は意識があって、視界に天井があってお布団があったかくて、、」

 

「でも死んでしまったらその後ってこの意識や感覚はどうなるんだろう」

 

「もし天国みたいな場所に今の意識のまま移るだけならいいんだけど、そうじゃなくてすべてなくなって真っ暗みたいな、」

・・・・・・・・

・・・・・・・・ッッッッッ!!!!

 

 

ここまでリアルに想像した私はぞっとして、その夜は怖くて眠れなくなったのです。

(気づいたらたぶん寝てましたけど)

 

以来、この自問自答が実は年に2〜3回は定期的にふとした瞬間にやってくるのです。

今は寿命で考えてもまだ前半戦かもしれないけど、これがだんだんよりリアルになってくると思うと、ぶるぶるするのです。けっこうガチで。

 

でもそんなこと考えて震えたって何も変わりません。

時間が経てば眠くなるし、お腹は減るし、お布団はあたたかいしで今日もみんな生きているのです。

誰もが、生まれたからにはいつか必ず死んでいくものです。人間に限らず、カタチあるものぜんぶ例外なく。

 

その前提は決して覆らないものであるならば、じゃあどうするか。

 

もう、生きてる間にしっかり人生を充実したものにしてやって、いつか死ぬ時に

「もぉ〜さすがにやりたいことだいたいやったし!心残りとかもそんなにねぇかなぁ!はいっ良い人生やった!ちゃんちゃん」

って笑顔で去りたい。

 

これしかねぇだろうってなり、より自分の人生、というか今この瞬間を大事に生きないといかんなぁと思って、今日も寝坊したし、だらだらしてるし、はい。人間

 

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好きな漫画の好きなシーン

 

8. こだわり

「この世に要らないこだわりなんてないから〜」

っていう、好きな曲の好きな歌詞です。

 

好きに生きて幸せを感じよう!って生活しようと思った時に、「こだわり」って少なからず何かあったほうがいいのかなと思います。

一概にこだわりと言っても、何かの物事に対する追求的な意味合いだったり、日々の生活の言動として重視していることだったり、いづれにせよその人の人となりもこだわりによって色々見えてくることもあり、まとめると人間的な面白さにつながるのかなと思います。(ファニーではなくインタレスティング)

 

そこで、誠に勝手ながら私のいろいろなこだわりについて、満足するまで、思いつく限り紹介させていただきますね。

 

【物事に対する追求編】

英語の発音はしっかりネイティブに寄せろ!

これは自身が英語を学習し続けている背景もあり、当初から意識していたことです。単に好きだからこそのこだわりでもありますが、やはり外国語のコミュニケーションの中で通じればいいじゃんで済ませたくなかったのですね、きっと。

例えば日本に移住した外国の方がカタコトの日本語でもだいたいわかるじゃないですか。それに対して文句はありませんが(むしろ日本人として非常に嬉しい)、自分が英語を話すなら相手に上手だねと褒められたり、あとは聞き手側に必要以上に負担をかけたくないのです。発音が怪しくで推測させちゃうみたいな。結果的に通じてももっとなんかスムーズにいきたいみたいな。

 

なんでも楽しく学びとする!

自分にあった成長方法といいますか、何をするにしても楽しさを感じれなければ本当にだめで、自分、、はい。しかもだめなことを周りのせいにしたくないんですよね(例えば数学って役に立たないやん〜みたいな一蹴することとか)

何においても工夫や考え方次第で絶対に楽しめると思うんですよ、たぶん。すべてというのは言い過ぎかもしれないけど。

詳細を書こうとするとすごく長くなるので割愛しますが、点と点をつなげるような考え方だったり、自分なりの仮説を立ててみて検証してみたり、ゲーム感覚でトライしてみたり、、まぁいろいろと。

こういった物事に取り組む際の考え方は過去の経験から自分に一番あっていると感じていることなのでこだわりだと断言できますね。

 

【日常の言動で重視していること編】

「お金」のことを「金(かね)」って言わない!

これは昔兄貴が「金がねぇ」ってつぶやいていたのを父親が注意していたことがきっかけで、横で聞いていた私は「その考え、、ええな。もろた」となりました。

言い方一つ、細かいところではあるかもしれませんが、人間社会で生きる上ですごく重要な要素であるお金の価値を軽んじるような気持ちが滲み出てしまいそうで、気をつけたいなぁと日頃意識しているこだわりですね。

*極めて特殊な状況下においては金ということもあります。例えば、経済のお話で出てくる「ヒト・モノ・カネ」みたいな使い方。逆にいえばそれくらいですけど。

 

食事の前後のあいさつはちゃんと作ってくれた人に伝える!

これも父親からインスピレーションを受けたことです。

私の父は今でこそ丸くなりましたけど、昔はかなり絵に描いたような昭和育ちの頑固者できかん坊って感じで。でも体育会系で育ったからなのか、チェーン店からいいお店関係なく、外食時にレジの人、見える時は厨房にまで届くように気持ちよく「ごちそーさんでしたっ!」って挨拶するんですよ。

これも無くても変わらないことかもしれませんが、やはり人間性でるなぁと思うんですよね。父のこういうところは尊敬できるなぁ、とこれももろたわけです。

こういう場面に限らず常に相手の気持ちを配慮した言動ができると素敵ですよね。えぇ。

 

ふぅ。。満足しました。多分他にもあるし、書いたやつも深ぼれば止まらなくなりそうですが、以上が紹介したかったこだわりです。

前述した通り、筆者である私の人となりがかなり見えてきたのではないでしょうか。自分をよく見せるのでこちらも必死なもんでね汗

 

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最後に留意したいこととして紹介したいのが、自分の持つこだわりは決して他者に押し付けるものではないということですね。そこだけ。

自分のこだわりを良いねと評価してくれる人がいればそれは良いことですが、みんながみんな共感してくれることもないでしょうから、少なくとも自分の中でしっかり大事にすればそれはもうどんなこだわりだってこの世に要らないこだわりなんでないのでしょう。

7. センス

センス、ありますか?

 

センスってなんですかね、そもそも。

絶対に調べません、自己解釈を並べてやります。

「かっこよさ、美しさ、人の心を動かすような」そんな〜選びなのかなぁってとりあえず思いつきました。

 

というかなんでそもそもこの話題について書きたかったかというと、単に私が「センスがよい」ということに対して語りたかっただけなんです(私のセンスがいいから聞けって意味ではないです。謙虚にいかせてください)

 

感覚は人それぞれですが、センスのよいと自分が感じるもの、ことについてやはり誰かからも「それ、センスいいねぇ〜」と共感してもらえると嬉しいものです。

しかもそれが、自分が「この人センスいいな」と感じている人からのお言葉ならば心は大気圏をゆうに超えて踊り出すものです。

 

ファッション、家具、好きな曲、映画、クリエイティブ要素の多い芸術作品系はやはりセンスのありなしが該当することが多いですよね。

 

では、このセンスとはいったいどのようにわたしたちひとりひとりのなかに宿るものでしょうか。センスは技術や見た目の変化とはまた違うため一見わかりにくいですよね。

 

私の勝手なイメージですが、まず生まれたてのBabyにセンスなんてあるわけがありません。なぜなら赤ん坊がセンスに関わる物事に触れることは基本的にないからです。その概念すら知り得ません。まずはみんな0からのスタートだと思います。

 

では、仮にそこから物心ついたタイミングのどこかで音楽を聴くようになったとします。その音楽にハマった人はいろいろな曲を聴いたり、演奏したり作曲することもあるかもしれません。クリエイティビティ到来です。

 

ここで、吟味したり生み出す楽曲に対しての良し悪しの判断にセンスが関わってくると思うのです。音楽を例に挙げましたがそのほかでも基本的に同じかと。

 

これまでに経験して、インプットした中で自身が良いと思ったり世間で認められたりしているものの中の要素を含んでいる、または全く新しい斬新なものなど、人を選びますがその人にとって良い創造を「センス」という言葉を借りて表現しているだろう。

 

それだけではなく創造者(神様みたいな言い回しになったね)の着目点や思想を加味して評価されているのです。

 

大事なことは、仮にあなたのファッションに対して「センスない」と呼ぶ輩がいたとして、すべてを鵜呑みに捉え悲観的になる必要はありません。

それは単に、その輩にとっての価値観であり、そこから出された評価がすべての他人からの評価だったり、あなた自身のすべてを判定していたりするわけではありません。

 

何かにおいてセンスを求めるのであれば一定数の意見を集め、傾向を探り、自身が良いと思うものを追求して磨いていくことで、センスはよりよくなるのではないかと。てかもうその過程が私からしたら生き方のセンス良いっすね。すべてのクリエイターに幸あれ。

 

私は好きな音楽、ファッションなど自身が選ぶものにできるだけ、それまでの人生を通して良いと感じたものを取り入れて自分の中のセンスを磨いていきたいものです。

 

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果たしてこのエッセイ集はセンスあるのか

6. いまこそ黒歴史をホワイトニング

誰しも過去に「黒歴史」と呼べる恥ずかしい、後悔の念マシマシの出来事があると思います。

曝け出す必要はないですが、思いきっって打ち明けてみることで楽になることもあるかもしれません。

そんな希薄な可能性に賭けて、どうか打ち明けさせてください。

(わざわざ自分からそうするなんて、もしかして私はちょっとドMなのかもしれませんね)

 

すべてぱっと思い出すことはできませんが、さすがに言えないものもあるので(滝汗)

ちゃんと中身の伴うエピソードを今回紹介します。

 

私は幼少期、思い返すとクソガキだったなぁと断言できます。

クソガキたる所以はいろいろあったでしょうが、その中の大きい要素として

「うそつき」という情けない特徴がありました。

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小学生の時分ですかね、うそつき全盛期でしたわ。

学校の友達と当時流行していたゲームの成果なんぞで、見栄を張って偽り鼻を伸ばしていました。すでに今執筆中の私は赤面です。くだらない。。

 

いきなりのカミングアウトで調子づいてきたところあれなんですが、実は、他のほらふきエピソードがあんまり出てこないんですね、絶対他にもあったはずなんですが。(脳の忘却という防衛本能なのか)

 

ただ、どれも共通して「ズルをしてでも自分をよく見せたい」みたいな軽薄で愚かな考えに囚われていたクソガキだったのです。

そして、どこかのタイミングで確かそれらの言動で痛い目をみて反省し、改心するきっかけがあったのだと思います(なんもおぼえていないやんけ)

 

それ以来、正直でいることに人一倍重きを置いて生きております。

嘘をつくことが苦手というか、できなくなってしまったような感じです。

なぜなら、自分ですごく苦い思い出があることを自覚できてしまった今では、大なり小なり嘘をつこうもんなら絶対に顔に出ちゃうからです。

 

ついてもバレるなら嘘をつく意味がないですもんね。

そんなことを考えるよりかは、後ろめたいような場面でも、カッコ悪く写ってしまうような場面でもせめて正直でいることが最後の尊厳というか、大事にしたいことだと感じるようになりました。

 

さて、ここまで読んでいただいてもしかしたら「思ったほど黒歴史じゃなかった」と思われた方もいるかもしれません。確かに聞く人によって黒歴史の黒具合は漆黒だったりダークグレーだったりもします。いいんです。私にとっては今でも悔い改めるべき対象として正直でいたいと強く影響を受けているので、十分黒歴史といえます。

 

自称、ポジティブ大魔王の私は自信の黒歴史さえも今後の自分の糧にしてやろうと今回小さじ2杯ばかしの勇気を投入して紹介させていただきました。

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ホワイトニングって1回で完全に真っ白になるもんなんですかね、もしかして続編が必要・・?勘弁してくれやぁまじ

5. ニーチェ先生から学ぶ人生と人間関係(持論)

大学生くらいですかね、英語を専攻していたのですが、英語を学ぶというよりかは英語で幅広い学問を学んでいこうっていうかたちで学業に励んでいた頃、哲学にすこし興味を持つようになりました。

 

哲学って聞くと、その瞬間にアレルギーを示す人、偏見が脳裏にひょっこりする人、多いと思います。押し付けはしません、私は自分なりに楽しんで触れて解釈をして活きた経験を紹介したいな、と思います。

 

ドイツの哲学者 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェです。

19世紀に活躍した彼の提唱した、とある考えが自分にとっての財産になっていると、都合よく解釈していますが現代にも通じる興味深いお話なのでアレルギーがでた方はお薬を飲んで続きをお読みください。

ガバな要約を会話形式のような形で続けていきます。

 

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ニーチェ先生『おい、おまえ、強者になれ』

 

当時の私(なんやこいつ)

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無理もありません、強者ってなんぞ。続きを聞いてみましょう。

 

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ニーチェ先生『人々は皆何かを正しい、正しく無いと考えるものであり、この世の中ではあらゆることが弱者を正当化しようとするために作られている。一般論として、多くの人がお金持ちや器量の優れた者を羨ましく、妬ましいと思ってしまい、そういった人たちがスキャンダルや失速してしまうことで隣の人間と喜びを分かち合うのである』

 

当時の私(まぁ、たしかに。現代ではネット上の炎上とかもそうなっているなぁ)

 

ニーチェ先生『多くのパンピー(弱者)はそうして互いに傷を舐め合い認めて生きている。違いを受け入れたく無いあまり自己の正当化としてそうなるものである。つまり強者であれ。』

(だから強者ってなんやねん)

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この大衆が強者を否定する気持ちのことを「ルサンチマン」と言うみたいです。

 

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ニーチェ先生『たとえば、世の中の様々な場面においてお金持ちは性格が悪いとされたり、権力がありながらもその権力に囚われず、放棄までできるような人は聖人として讃えられたりするようにできている。優しさでさえルサンチマンから来るものだ。お涙頂戴物語や人に親切にしないやつはクソだ!みたいな風潮もすべてルサンチマンによるものなのだ〜

 

(ヒートアップしてきたぁ、でもまぁわかるなぁ。)

 

ニーチェ先生『弱者は自分はこのままでいいんだと考える、しかもそれが人づてに増殖する。強者とは物事の善悪を理解し自分自身の基準を持ち、孤独の中で頑張らなければならないのだ』

 

(・・・!!!)

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さて、いろいろ割愛したりガバで進めましたが、ニーチェ先生がおっしゃた世界の事実としての側面はみなさんもなるほど、となる部分が大きいのではないでしょうか。

ここから私が個人的にじゃぁ、なんなん?って感じたところを持論として書きます。

 

前作の内容と通ずる部分ですが、やっぱりどうせ生きていくなら何かしらの目標とか理想を持って、それに対して頑張っていきたいよね、っていうのが私の個人的意見としてあります(日々を平和に、のんびり過ごすも立派なこととして認識しています。現状維持も労力かかりますし)

 

そこで、世の中に溢れている娯楽や同情の感情というものは必要ではあれど、摂取量はほどほどにしないとね、とも思います。ここは先生の提言に部分的賛同なわけです。

 

目指すことが決まればそれに向かって努力する、いま周りにいる友達や家族が同じ方向を向いているとは限りません、孤独になることもきっとあるでしょう。

ただ、その孤独は決して悪い意味ではなくそれを正しいものだと背中を一押ししてくれる考えをニーチェ先生から学べたのではなかろうか?

 

と、えらく都合のいいように解釈できた自分をよしよししてあげたいです。

 

別に先生のように、他人に対して「お前は弱者だ!このまぬけ!」みたいになることもないし、自分にとってプラスに働くポイントだけをかいつまんでおけばよかろうと。

また、やっぱり生来「ルサンチマン」的感情を持っている人間なわけですから、日々を生きているとどうしても人を羨ましく思ったり、同情してほしい気持ちが言動に出ちゃう時はあります。人間だもの。

 

でもそういう停滞になりうる状態になっても「あ、今自分はこういう感情になっていて、これは誰もがなりうる状態なんだ」と冷静に分析して必要以上にネガティブに陥ることもないのではと考えるきっかけになりました。

 

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ひょんなことから蓋を開けてみるとこんなに(個人的に)面白いなと思える発見があるって、やっぱりお勉強って大事ですね。はい。

4. 俺たちはどう生きるか

(個人の見解です。ふーん程度に)

 

突然ですが、みなさんはご自身の今の生き方に対してどうお感じになられているでしょうか?

宗教の勧誘かよ、な頭だしになり自分でも鳥肌ものですが、一応ちゃんと自分の中でしっかり思っていることを綴ろうと思っています。偉そうにいろいろ書くかもしれませんがフィクションとして楽しんでください。義務はどこにもないので。

 

結論として、何かしらの形でその時その時の「今の自分」に対して納得いかない、疑問を持つ、などの気持ちを感じていることが理想なのかなと私は思うわけです。

 

まず、ヒトの人生を「過去」「現在」「未来」と分けて考えた時に、

・「過去」に悔いがあるか、反省してこれからに活かしたいと素直に省みる失敗があるか

・過去から影響を受け、未来に向かってどのような「現在」を生きているか、

・「未来」に対してどう成りたいかというビジョンは漠然とでも持っているか

 

など、人一人の人生、生き方に対して考えることができると思います。

(もちろん網羅しているわけでもきっとないですし、他者が他人に対して評価することでもないです。あくまでも自己の振り返りのようなものとしてみています)

 

ぶっちゃけ、こんな風に書かなくても当たり前のことでしょって思うかもしれませんが、私の経験上、上記をちゃんと意識して日々を生きている人は案外少ないのではないのかなと思います。かくいう私自身も鼻高々に語っているようで正直ちゃんと体現できているわけではないのです。普通に難しいことだし自分にいい聞かせる目的もあります。

 

人の生き方なんぞ高尚な題目に石投げて一体なんだとなりますが、先ほどの質問に対して胸を張ってちゃんとうまくやっているよ!って言う人は、きっとその人の軸の中で幸福な人生を生きているのではないかというのが私の見解なわけです。98%くらい。

 

そしてそういう幸福な人生を生きている人たちは須く(言い過ぎかも)、客観的にみた時にキラキラしていて、人間的な魅力に溢れているのではなかろうかと思うのです。

 

数にして70億以上は繁栄している人間さまですが、もちろんその中でも価値観や雰囲気の合う合わないはあり、自分にとっては憧れるまではなくともなんかすげぇなぁ。。と思う人もいれば、純粋に心酔するほどキラキラと写って見える人もいるでしょう。

 

逆に考えてみますね。

「不平不満や愚痴ばかりを常日頃から漏らしている人」

極端になってしまいますが、どういう人間をイメージするでしょうか。

なにか目指したい未来があって、そのきっかけとなる過去があり、現在を生きている人はきっと自ずとマイナスな言動は減るような気がします。

妬み嫉みの類も然り、しきりに横を見て人と比べる必要はないのでしょう。

 

私は個人の見解として、この主張を他人に押し付けるつもりはありませんが、やはり

「かっこよく生きたい」という漠然とした在りたい姿がどうしてもありまして、

そのための手段としてこれまで長々と書いてきた、持論に対して「きちんと、本気で」自分の人生について時間軸などを振り返りつつ自分なりに考え抜いたわけです。

シンプルでいいかと。

 

Q.何に興味があるの?

Q.現状の何を改善したい?

Q.どういう自分なら認めてあげられる?

Q.ここまで定まれば実現するための方法はどうする?信頼できる人に頼ることも必要だよね、いなければ過程の中に見つけることも見据えないとね。

 

ぱっと思いついた羅列に過ぎませんが、要は自問自動です。自分の人生について。

せっかく生まれたんだし、いつかは無くなるんだし、境遇はみんなそれぞれ

みんないろいろ抱えていて人生ハードモードも珍しくない世の中です。

 

僕は自分が「かっこいい」と思う人と関わり、酸いも甘いも噛み締めていづれはそうなりたいなぁと思います。気づいた時に近くに居てくれる人と助けつつ助けられつつ楽しく居たいです。誰でも彼でも優しく接する余裕はなくなるかもしれません。もしかしたら人によっては冷たい人だねと思われるかもしれませんが、もうぶっちゃけると、自分が良くしてあげたいと思う人は、同時に良くされたいと思える人だけでいいです。

 

過干渉は無いし、自然と真っ直ぐ見たいものだけが視界にある状態がだんだんと成長と共に広がっていって、それで良いです。

でも偉そうに1つだけ是が非でも言っておきたいのは、

自分の人生に対して一度でも本気で向き合ってみるといいんじゃない?です。

みなさんはどう生きますか?

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(真面目な話ばかりなので最後に濁しとこうか。うんちぶりぶり)

3. 世にも奇妙な生物『ぬこ』

(※本記事は本当何言ってるか分からない箇所が点在している可能性があります)

 

皆さん、こんにちは。

私はこれまで20数年ほど生きており、たまぁにこういった不思議な出会いを経験することがあります。きっと他の人でも同じようなものだと勝手に思ってますが。

 

『ぬこ』

と聞いて何を連想されますか?

 

メジャーな答えでいくと、ネットスラングとしての「猫」の呼称でしょうか。

ねこちゃんズを「ぬこ」、「ぬっこ」とゆる〜い感じに呼ぶのか、この使い方での語源は分かりませんが。

 

このようなネットスラング然り、言語史の中で変化してきた言葉とその使い方然り、

正式名称ではないが故に感じる不思議さに惹かれることがあり、それは一体何なんだろうと要因について気になるものなのです。(個々人の感じ方によるため正解は無いと考えます)

 

上手く言葉で表現することができるのか、いや難しそうだな〜くらいのラインに立って自由に考えてみます。

 

『ぬこ』

 

思わず声に出して呼びたくなりますね。

「ねこ」でもいいのに、というかそれが正しいのに、「ね」が「ぬ」になる事で何か違うのでしょう。

「ぬ」が使われる表現では「ぬくぬく」「ぬめぬめ」この2つしか今ぱっと出てきませんでした。脳のCPUのアップデートを検討しないとですね。

はい。後者の表現は置いておきまして、「ぬくぬく」というのは冬に抱きしめると暖かい「ねこ」のイメージに合うかもしれません。

「ねこ」と呼ばずに「ぬこ」と呼ぶことで、そういったねこの持つ温かさとか、愛らしさ的なイメージを呼び名に持たせてくれるのでしょう。

 

 

『ぬこ』

 

よく、犬系男子、猫系女子などのように愛玩動物は人を形容する際にも使われている気がします。

ここにも「ぬこ」は応用できるのではないだろうか。

「ぬこ」的要素を持つ人を「ぬこ」と呼ぶ。

ここで正式名称の「ねこ」ではなく「ぬこ」と外して呼ぶことにより、動物としてのヒトとネコは区別できますね。便利。

 

では、どんな人を「ぬこ」と呼ぶのか。

自称「ぬこ」、これが1番ですね。

 

自分は「ぬこ」であると言われるならば、その人は誰がなんと言おうと大抵「ぬこ」に成るのである。

その際に「ぬこ」という名称自体に意味はなくとも、「ぬこ」であると認知された後の当人との経験や他者が感じたイメージなどが「ぬこ」にとっての「ぬこ」たる要素として付いて来るのだろう。

要するに、例えば以下のようなケースである。

 

①私は「ぬこ」であるカミングアウト

②周りは「ぬこ」が何なのかは置いといて、ひとまずその人は「ぬこ」なんだと認知

③自称「ぬこ」は人懐っこく、明るく愛嬌のある言動を日常的に見せている

④周りは自称「ぬこ」に対して「人懐っこい、明るい、愛嬌のある」イメージを持つ

⑤周りは「ぬこ」という本来意味が空白であるその言葉に④のイメージを刷り込んで持つようになる

「ぬこ」って「人懐っこい、明るい、愛嬌のある」って感じだよね〜と漠然と感じる

 

 

上記はあくまでも1例ですが、自分なりに頑張って「ぬこ」という不思議な感覚の不思議さを分析しみました。推敲するつもりはありませんので。正しいか正しくないかより、なんか発散して共有したかったのです。

 

それに、わざわざ「ぬこ」である必要もありません。身の回りには他にもたくさんの似た感覚がきっとあるはずです。

 

しかし、もし本当に「ぬこ」という人が居たらそれはなんとも不思議で可愛らしく、「人懐っこい、明るい、愛嬌のある」存在なんでしょうね、きっと。

 

『ぬこ』

あなたも周りにも今日も元気にぬこぬこしているかもしれませんね。

 

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(ゲシュタルト崩壊不可避)