*本編では時折、いや全体を通して少々、、いやけっこうお下劣な内容となっておりますゆえ、先にお断りだけ。。
後編になります。
前編の簡単なあらすじ
おならと寄り添い生きていくことを決めた筆者は放屁トレーニングに励みついに「音の出ない無臭屁」を会得したのでありました。
目次
1、僕とおならの出会い
2、放屁トレーニング
3、慢心が招いたテロ
4、僕と放屁のこれから
第3章〜慢心が招いたテロ〜
前章にて「音の出ない無臭屁」を完全にモノにした私はそれ以来、人前でも臆せず放屁を連発するようになりました。
学生時代にお腹の張りを感じると、まずは腸内管理として自身の現在の腸の状態を確認します。
僕(兄弟、調子はどうだい?)
屁(こちら現在Gルートを通過、問題ない。奴は居なさそうだ)
僕(了解。今朝出してきたばかりだからな。そのままゲートの通過を許可する)
屁「ブリィッ(意:うぃ)」
このようなやり取りをコンマ0秒単位で行い、これから放出する屁に悪臭は付随されないことを確認します。(臭いがあると判断した場合は直ちにトイレに行きます)
そして次にゲートの開閉です。
絶妙な調整を行い「スゥゥゥ~…」と摩擦音による放屁音を限りなく落とした屁をするのである。
音はない、臭いもない。その空間に既にただよっているその他の気体となんら変わらないそれを放ったところに、何が変わるだろう、誰がそれに気づくだろう。私の勝ちです。
この時、私の人生史における転機を述べるならまさに「放屁を極める前」と「極めた後」に別れるだろう。それほどまでに私の中でこの放屁スキルの習得は自信になったわけです。
家の中ではもちろん、電車移動やショッピングなど外出時でも気にせず億さずペッペッペ〜
「おなら」に起因する日々の悩みのほとんどが解消したと言っても良いほど快適な放屁ライフを満喫していました。
そんな時に、慢心が故に無差別放屁テロを意図せず行ってしまうことをこの時の私はまだ知らないのでしょう。
それは、2023年の夏、仕事で休暇を取り仲の良い先輩方と静岡へ旅行に行く電車の中での出来事でした。
東京から静岡では電車を使って約2時間ほどで到着します。一緒に行く先輩と談笑しながら移動時間を楽しんでいた私にいつもの如く放屁チャンスがやってきました。
この時には既に「音の出ない無臭屁」をすることが当たり前になってしまっていた私はなんの迷いもなくスッ…と無駄なく放屁しました。
恐らくもう「おなら」に対しての価値観は周りの人達とは違うのでしょう。
問題なく無音の放屁をした後、隣の先輩と談笑を続けていると、ふとそれまで笑っていた先輩の顔から一瞬で笑みがストンと消えていました。
あれ?って思った次の瞬間にその悪臭は私の鼻の奥の神経を貫きました。
「……ッッッ!!!!! クッッッッッッサ!!!!!???」
かほりはもう、う○こです。
うん○が出たわけでは無いですが、そのかおりはもう紛いもなく気体状のうんこです。
しかも、うんこの中でもクッサイうんこです。
特級呪霊ばりのが顕現されました。
あまりの強烈な臭いに僕はまずこう思ったのです。
(誰だよ…まさか車両内で漏らしたやつでも居るのか…?)
己でした。
漏らしてはいないが、己でした。
念の為先程まで私が座っていた座席のゲート部分を恐る恐るクンカクンカと香ってみると、あら不思議。同じ悪臭がここからするではありませんか。
あの優しい先輩も思わず「ごめんけど、クサイ」。
私は何が1番ショックだったかと、あれほどまでに放屁に対して強いプライドを抱いていたのにも関わらず、ここまでの悪臭を放っていた自身の不甲斐なさです。
それはもはや、放屁したことへの羞恥心ではありません。臭いを出してしまったことへの屈辱です。あとはシンプルに臭すぎて、指定席で取った電車の座席を移動するか本気で悩みました。
ここで、再度おさらいを
「音の出ない無臭屁」を実現させるためには、臭いの観点において腸内管理がエッセンシャルなわ訳です。
テロを発生させた数日前の私の食生活を振り返ります。
旅行3日前の僕は深夜になかなか寝付けず、気づけば空腹を感じていました。
日付をギリギリ回らないくらいの時間帯に寝る準備を済ませてコンビニに行くのは非常に億劫です。某フードデリバリー系サービスにて何か無いかと見てみるとそこには唯一ピザの選択肢がありました。
(深夜にたまにがっつくピザも悪くねぇか)
ポチッと。
簡単です。3~50分くらいで届きました。
Lサイズピザ3枚。
なんで?
注文履歴を確認しても深夜テンションでポチポチして不注意で間違って注文を重複させていたことに気づいてなかったという事実があるだけでした。
一人暮らしにLサイズピザ3枚、冷凍保存もできますが、なぜかその後旅行当日までの3日×3食をピザ消費に費やしピザ漬けの生活を送っていました。
それは、腸内環境が気付かぬうちに劣悪になるのも頷けます。自身の落ち度にほかなりません。
ゲートの開閉調整だけではなく、本当の放屁というものは、食事から始まっているものだとこの時再認識することができたのです。
最終章〜僕と放屁のこれから〜
現在私は社会人2年目が終わろうという時分になります。お仕事は在宅がほとんどなので、せっかく会得した放屁術はあまり役に立ちません。
放屁術のコントロールに成功したあの感動と泡沫の栄華は何だったのでしょう。
親睦の深い仲間内でエンタメとして放とうとする放屁にも音はなく、放屁する度に腸内の管理(最初のやりとりのような)はしなくなりました。
結局のところ、おならを愛しおならに愛されなかった私でしたが、それでも今後生きてく中で幾千もの放屁は止まらず訪れます。
私自身の、その時その時置かれた環境によっては、放屁術なんぞ不要となることもあるでしょう。どんなに頑張っても臭いを放ってします放屁もきっとあるでしょう。
しかし放屁はいつでも素直にやってきてくれます。一人一人の人生に合わせた豊かで芳ばしい放屁ライフを送られることを心から願うほどではありませんが、まぁよしなに。
おわりに
長々と何を書いてるんだと、、
割と楽しかったです。ただのカタルシス
汚い話で申し訳なかったですが、いつまでたってもこういうくだらない話を本気で楽しめる幼心を持った大人で在りたいものです。
お、ちょうどおならが出そうです。
無音、無臭でした。
今日はなんだかいい日になりそうです。